本当に手話で子育てすべき?

ごくまれにですけど、聴者に「子どもが耳が聞こえないんです、どう子育てすれば・・」という相談を受けるときがあります。これがなかなか難しいんですよね。そもそも教育者でも医者でもなんでもない僕に聞くこと自体アレですけど、まぁそれは措いて。

かつてはろうの子どもが生まれたら手話で育てればいいんだ! ろう学校、できたら明晴学園あたりに入れて親も手話を身につければオールオッケー☆という意見だったのですが、いやいや、なかなかどうして今はそれほど簡単に答えられないなと思っております。

ちなみにろう者から「聴者の息子とのコミュニケーションが難しくて・・」みたいな相談もちょこちょこ受けます。というか、繰り返しになりますがなんで僕に聞くんですかね。

 

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■子どもがろう者

そうなんですよ、今は一概に「こうだ!」とは言えない。

さきほど親が子どもの世界に飛び込めばいい、なんて言いましたが子育ては大変です。このご時世ほとんどが共働き。仕事を終えて子どもを迎えに行ってごはんの準備をしてそこから手話を覚える・・というリソースがどこにあるというのでしょう。もちろんできる人はいるだろうけれど、すべての親が可能かとはまったく思えませんよね。いまからフランス語覚えられます?

仮に子どもがろう学校などで手話を身につけることができ、手話を母語として順調に育ったとしても、親が手話を身につけることができなかったら・・親とのコミュニケーション不足というリスクが起こり得るわけです。

それは母語を手話ではなく日本語にしてしまうときのリスクと天秤にかけられるようなものなのでしょうか。それにきょうだいがいたとして、上の子は聴者で下の子がろう者だったら? 家族間のコミュニケーションは手話にシフトしていくべきなのでしょうか。

僕はどちらかといえばそれでも手話を身につけるべきという考えですが、他者に自信をもっておすすめできるほどのエビデンスも熱意も持っていないですね。

 

■親がろう者

コーダの場合はどうでしょう。まぁコーダといってもいろいろですが。

家族の会話は手話で行われるべきなのでしょうか。両親の母語が手話であれば必然的にそうならざるを得ないと思いますが、親同士の会話が対応手話を含めた日本語であればどうか。僕の観測範囲だとこちらのパターンが圧倒的に多いです。

恐らく、ですけどコミュニケーションの精度は手話オンリーの場合より下がるように思います(大なり小なり音声に依存するコミュニケーション手段なので)。とはいえ彼らにとってはそれが自然なやりとりなのだからそれでいいわけです。親がわざわざ日本手話を覚えるのはナンセンス。

 

ろうの子どもが手話を母語とするのが望ましい、という理屈はろうの子どもにとって母語を手話にするほうが自然であり、身につけやすいからです。音声言語である日本語をろうの子どもが身につけるには時間がかかり・・言語の発達の遅れは精神のそれにもつながってしまう。それゆえろうの子どもが身につけるべき母語は日本手話>日本語という明確な優劣が存在する・・という論理ですね。僕もおおむね支持します。

しかしコーダはあくまで聴者であるため、母語は日本語でも手話であろうともどちらでも良いはずですよね。僕は基本的には子どもか親のどちらかがろう者であれば、親子間のコミュニケーションは手話(というよりろう者のルール、行動様式)で行われることが望ましいと思っています。でもそれは「低金利の今なら住宅ローンは変動金利」、「GLAYはビジュアル系じゃない」、「正史はフィンラケではなくベオラケ」みたいなもので、「まぁそうかもしれないけど人によるよね」という範疇ではないのかなと思います。

 

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とにかく子育てはその家庭の経済力、余暇の多寡、周りに頼れる人がいるかどうか、本人の性格、地域性などで難易度が大いに変わってきます。僕の周りだけでも家庭環境は多種多様。そんな状況を鑑みると、簡単に「家では手話でコミュニケーションを取ればいいんじゃないの」とは言えなくなってしまいました。

こういう気持ちが強くなったのは自分が親になったからかもしれませんがね・・。

というわけで相談されたときには「好きにすれば」をオブラートに包みまくった言い方で答えております。