手話歌の「善良さ」

とあるイベントで、こども手話歌の監修を依頼されました。

もちろん断りたかったのですが、お話を伺うといささか断りづらく・・というより、なんで断りたいのかを説明するのが大変です。

「手話=日本語に対応した手の動き」だと思っている人たちに「手や身体の動きに文法的要素が(中略)日本語に合わせて手を動かすだけではろう者には通じない」と言ったところで通じるでしょうか。そして彼らはろう者に伝えたくて手話歌をするわけではないのです。お話を伺う限り、子どもたちが成長したとき「あ、あの手話知ってる!」と思い出してくれれば、なにかのきっかけになればそれでいいのだと。善良な人々です。

この善良パワーに抗うのはなかなか厳しい。ろう教育の歴史を見ても、「聞こえなくても話せるように・・」と一生懸命善良な人々がせっせと口話法を子どもたちに叩き込み、善良な医者が我が子が聞こえないと知った両親に向かって「ご安心ください、人工内耳があれば・・」と語りかける。

もちろん口話法や人工内耳が悪い選択という意味ではありません。暗黙のうちに良い選択だとされているのが善良パワーのなせる業であり、そこに疑問を差し挟む余地がないように見えるのが問題なのです。

 

手話歌ってどうしても耳障りがいいから多用されるんですよね。ろう者とか関係なく、ただ手話で振り付けしたいから手話歌を使う。そしてイベントのMCに手話通訳はついていない。いや、いいんですよ。だめじゃない。要するに手話はデコレーションでしかないのだから。実際にろう者が見に来ることも想定していない。

もちろん好きな人は好きにすればいいと思うんだけど、これでいいのだろうかとも思う。

以前に手話歌のことについて書いたときは、

 

”手話歌の表現ではろう者には通じないとかそういう論争は根深そうなのでここでは触れませんが、そもそも手話歌はろう者のためだけにやっているわけではないですよね? もちろんろう者に伝わらない内容なのに「手話」の名を関するとは何事かという意見もわかりますけどね。”

 

とは言っていましたが、自分が当事者になるとなかなか複雑な気持ちになります。

結局断る理由が思いつかず冒頭の依頼を受けることにしたので、一応ろう者にも伝わるような翻訳を行い、自分でビデオを撮って先方にお送りしました。

これで良かったのだろうか? 送ったビデオにはもちろん文法要素が含まれていますし、ビデオをお送りした際に簡単な解説も添付しています。しかし初めて手話に触れるような人が細かい動きまで真似できるわけがない。実際は歌いながらになるわけですし、おそらくただ手の動きをトレースするだけになるでしょう。

 

手話歌を黙認している自分は、手話やろう文化がゆるやかに死んでいくことに加担しているのだろうか? そんなラディカルな考えも頭をよぎります。