誰も君を否定しない

先日、難聴協会の方と音声認識についてお話したのですが、どうも協会では積極的に導入しているわけではないようです。

 

え、なんで??

 

音声認識の技術は難聴者(=日本語が母語)にとってはまさに魔法の杖だろうと思っていたので驚いていると、

 

「要約筆記の仕事が減るから歓迎していない人々もいる(主に高齢会員)」

 

とのこと。

えええええ冗談でしょ? 何のための要約筆記なのさ??

手段が目的になってしまっているではないか。まぁ一部の意見かもしれませんがね。

 

僕は要約筆記の経験はほんの少ししかありませんが、技術も人数もスペースも機材も必要な情報保障であることは疑いがありません。とにかくコストがかかる。

でもそれを補って余りあるメリットがあったから長い間利用されてきたわけです。

 

音声認識の技術が発達することで要約筆記の仕事がなくなるのではないか、という考えは自然ですが、だからといって大きな流れに棹さすような態度を取るのはいただけませんね。

むしろ迎合し、発展途上の技術と長く使われてきた技術をどう融合させるか、という考え方をしたほうが建設的です。いつかはメインストリームでなくなることは避けられない。

要約筆記が現在のような形で続けられなくなったとしても、彼らのしてきたことが誤りだったわけではない。まだOHPで消耗してるの? と言われるわけではないのです。

 

じゃあいずれ手話通訳もいらなくなるじゃん、それでいいのかという反論があると思いますが、一部のニーズは失われない、もしくは失われにくいと思いますね。要約筆記よりは多少現役でいられるのではないでしょうか。

しかしそれも、囲碁の名人よりチェスの名人がコンピュータに敗北するほうが早かったというだけの話です。だからといってチェスより囲碁の方が優れているゲームだという証明にはならない。

 

というか手話通訳がいらなくなってもそれはそれで仕方ないですよね。だってもっと低コストで同じだけの情報が得られるならろう者はみなそちらを選ぶはず。

今さらAppleiPodを作りませんし、ソニーAIBOの開発を止めました。電卓や万歩計、辞書などは単独の商品として売り出せなくなり、ゆるやかに存在を消していくでしょう。

ただ、手話通訳や要約筆記が不要になったとしても、今までやってきたことや通訳者の存在自体が否定されているわけではないのです。長い間通訳をしてきたり、要約筆記の技術を持つ人だからこそできることがあると思いますがね。

 

僕自身はどうしましょう、前にも書いたかもしれませんが、いずれろう者自体がいなくなる可能性もあるのです。ふふふ・・。