手話言語法ってなんで必要なの?

手話言語法がなぜ必要なのか。いやまあこれは全日ろう連のサイトを見ればいいんですけど。特にパンフはわかりやすくていいんじゃないでしょうか。

 

興味ある人は是非下のリンク先をごらんください。

 

https://www.jfd.or.jp/2016/11/30/pid15884

 

おわり

 

・・とまあいければいいんですけど、なかなかそう簡単にはいかないようで。

ろう連盟としてはとにかく法律を早く制定したいと思っているでしょうが、手話という言語をどう定義するか、で若干もめているようです。

まぁよく聞くやつですよね。

日本手話か、日本語対応手話か。よく聞きません?

下のリンク先にはそのゴタゴタに対する回答が載っています(読まなくていいです)。

 

手話言語法に関する見解

https://www.jfd.or.jp/2018/06/19/pid17838

 

全日ろう連としてはとっとと法律作りたいから日本手話と対応手話の違いに労力を割いている場合ではない。どっちも手話でいいじゃん。どちらのスタンスも言語法制定のために力になってほしい・・という感じのようです。言い過ぎ?

 

しかし手話言語法の必要性を述べる際(『手話言語法を制定することへの意見書』)に、

 

言語学的な観点から見て「言語である」』

 

 

と引用していることからわかる通り、

全日ろう連自身が手話に対する言語学的なエビデンスの必要性を述べています。

しかし前述の見解においては、

 

『大切なことは、「手話」が私たちろう者が自らの道を切り拓いてきた「生きる力」そのものであり、「命」であることです。その手話を「日本手話」、「日本語対応手話」と分け、そのことにより聞こえない人や聞こえにくい人、手話通訳者を含めた聞こえる人を分け隔てることがあってはなりません(中略)それら全てが手話であり、音声言語である日本語と同じように一つの言語であることを共通理解としていきましょう』

 

 

という感情論を持ち出してしまうあたりなかなか苦しい。

どんな手話であれろう者たちにとっては大事な言葉。生きる力の源なんだ。そこに優劣はない。みんな同じ手話やねん。言語やから(誰)。

しかし生きる力であることと言語であることはまったく別の話ですからね。

全日ろう連も困っているのではないでしょうか。

日本語と異なる文法体系を持つ日本手話と日本語の文法をベースにしている日本語対応手話、どちらも法制上は「手話」です。みたいな書き方じゃ駄目なんですかね。

日本語対応手話だって日本語という立派な言語の文法を用いているのだから、言語としてふさわしくないわけではないでしょう。

 

ただね、おそらくこの流れにNOを突きつけている人達は、いざ「なんでもかんでも手話だよね!オッケーベイベー法律つくろっ♡」ってことになると・・

 

日本手話だろうと対応手話だろうと手話さえできればOKということに

→当然日本手話のほうが獲得が難しいのでみんな対応手話覚える

→ろう児も対応手話に適応する必要がある

→まずは日本語を覚えなくちゃ

第一言語の獲得が遅れて、手話の獲得も遅れる

→心の発達が遅れる

→以下略

 

という流れになることを危惧しているのだと思います。

要するに今と大して変わらないですね。

日本語対応手話を覚えるには日本語を覚えなくてはならない。そしてろう児にとって日本語を覚えることは易しいことではない。

この事実がぽっかり抜け落ちているから変な話になってくるわけです。

まあでも全日ろう連は対応手話が日本語だとは思ってないんでしょうなあああああ苦しいなああああ。それとも僕の知らないデータがあるのでしょうか。対応手話とか日本手話とか関係ないんだよと断言できる何かが・・。

 

法律の制定というところを目指すのか、それともその後を見据えてやっていくべきなのか。法律はビジネスの企画みたいに「やっぱ変えようぜー!」って簡単にPDCA回せないですからね(たぶん)。大変ですね。

ただ僕は何度も書いているように全日ろう連は凄まじい勢いで追撃してくる音声認識の脅威を考えたほうが良いと思います。ちんたらしているとろう者自体の存続に関わると思いますので。

 

今後、聴覚障害者には音声認識を用いて情報保障を行うのがメインストリームになると思います。一部のろう者にとってはもはや下手な通訳よりは第二言語音声認識のほうが効率よく情報を得られるという状況になるでしょう。

手話より日本語を学んだほうが勉強やビジネスにおいても効率が良いとろう者自身が気づいたとき・・あれ、今もそうか。じゃあやっぱ変わらないのかな?(おいおい)

 

ところで「全日ろう連」って略し方は正しいのでしょうか。。