続・ろうの子どもで良かった?

前回の続きです。
ろうの母親が、自分の娘がろうとして産まれて嬉しかったという発言に対して否定的な意見が多かったという話。

 

そもそもろうであること、耳が聞こえないことをマイナスと捉えれば否定的な反応が出るのは普通ですよね。ただ少なくともあのお母さんはそんなに自分がろうであることにネガティブな意識はないんじゃないかなと思います。
当たり前っちゃ当たり前ですけど、通常、人は「耳が聞こえない人」を「今の自分から聴覚を失くした人」としてイメージします。「欠落」でイメージするので、生まれつき耳が聞こえない人たちの感覚とズレているんじゃないかなぁと思うわけです。

彼らからすれば聞こえないことが自然な状態なのです。
もちろん聞こえないことで不便や不利益があったり、腹を立てることもあるかもしれません。しかしそれは自分の「欠落」ではなく聴者の社会の問題なのだと認識しているのではないでしょうか。意識的にせよそうでないにせよ、「耳が聞こえないこと」自体は良いも悪いもないと思っているのではないか。僕の周りにいるろう者を見ていると、そのような印象を持ちます。5chの反応に僕が驚いたのも、その感覚のギャップから起きたことなのかな、と。

 

例えば、件の番組でも「耳が聞こえるようになる薬があったら飲みますか?」という質問がありました。質問自体はそんなに悪くないのですが、「耳が聞こえなくなる薬があったら飲みますか?」という質問と等価かどうかは考えるべきだと思います。
聴者にその質問をするとき、そこに意義を感じるか? 番組にする価値はあるか? ということです。

他に反論としては「生まれてくる子どもが聴者であっても、手話で育て、会話することはできるのではないか。わざわざろうの子どもを願う理由にはならない」というものもあります。まぁ僕が考えたんですけど。
これはまったくもって正しい反論で、聴者とろう者を等価と考えているのであればどちらでも良いはずですよね。しかしコーダ(聞こえない両親から生まれた聞こえる子ども)の問題はなかなか難しい部分もあり、僕は一概に「うん、そうだね!どっちでもいいよね!手話で話すことが大事!」とは言えない部分もあります。この話はまたいつか。

 

最後に、Twitterの検索の仕方がやっぱりよくわからず、あまり番組についての記述は見つけられなかったのですが、印象深いツイートがあったので引用して終わりにしたいと思います。僕は明晴学園の存在意義の一部が切り取られているように思いました。